ジャネットは、ため息をついた。

 

もう二度と戻らないと。

ここを見ることはないと。

そう決めていたのに、また戻ってきてしまった。

 

あれは何年前だったろうか。

見上げると、青い空が目にしみる。

 

そうあのときもこの色が目にしみた。

 

まぶたを閉じて、深呼吸してみた。

鼻をくすぐるのは、乾いた砂と草の香り。

懐かしいのかなんなのか、わからない。

でも、きゅっと胸がしめつけられるのは、なぜ。

 

乾いた砂を踏みしめる音が聞こえて、

そっとまぶたをあけた。

 

シルエットがみえる。

会いたくなかった人。

そう、トニーの姿を。


「帰ってきてたのか」

 

聞き覚えのある低い声が、胸に響く。

 

わたしが何も答えずにいると、

トニーはまっすぐ私をみつめながら、歩いてきた。

 

目と鼻の先まで近づいたトニー。

 

なぜか目をそらせないでいた。

 

何もいないでいる私。

 

「行くあてはあるのか」

 

ぶっきらぼうなその口調は、あの日を思い出させる。

 

よみがえる記憶を振り払うように、わたしは顔を上げた。

 

「・・・あるわよ、ジミーのうちにね」

 

「ジミーのうち、か」

 

トニーは考えるように答えた。

 

ジミーには、昨晩のうちに連絡はつけておいた。

今日ここに帰ることになったのは、ジミーだけのはず。

誰にも話していなければ。

 

「長居はしないつもりよ。なるべく早く見つけて引っ越すつもり」

 

考え込んでいるトニーを心配させないように、

というつもりはないけれども、

気取ることなく明るく答えた。

 

トニーは何かいいたげな表情をして、

わたしを見つめた。

 

口を開いたとき、「おーい」という声が後ろからしたので、

振り返ると、ジミーがやってきた。

 

ジミーの姿をみると、思わずにこやかになる。

「それじゃ、いくわね」

 

「じゃあ」

 

トニーに軽く手を上げると、

わたしはそのままジミーのほうへ歩いていった。

そのまま振り返らずに。

わたしの髪が甘い風にのって、引かれるようにたなびいた。


3.

哀しいことはすぐに忘れたほうがいい。

そのほうが、幸せがきてくれるのだから。

 

目が覚めた。

いつもは朝陽が窓から差し込むはずが、

一向に差し込まない。

そうだ。

わたしはジミーの家のいるんだった。

 

ベッドの中で寝返りをうってみる。

おぼろげながら、

目が覚めたことを思い出してみた。

 

あの夢。トニーの夢。

また見てしまった。忘れられなかった。

忘れるはずもない。あの言葉。

 

昨日のことのように思い出すのに、

言葉だけが一人歩きしてしまうように、

まったく現実とかみ合わない夢。

 

一度わたしは深呼吸してみた。

今日からやることがたくさんある。

 

今の気持を晴らしたい。

朝起きたら走りたい気分だ。

 

わたしはジョギングをすることにした。

旅行用バックから

ジョギングの服を取り出し、

手早く着替えた。

持ってきておいてよかった。

 

部屋を出ると、

リビングには誰もいなかった。

向かいの部屋のドアはしまっている。

ジミーはまだんているようだ。

 

テレビのそばの時計をみると、

午前6時を回ったところだった。

 

ジミーの家はまだ寝たままだった。

何も物音がしない。

それはここだけの話だ。

テキサスの朝は早い。

 

ジミーを起こさないように、

そっとわたしは家を出た。

合鍵を忘れずにもって。

 

家の前には、

1970年代のフォードトラックが

止まっている。

 

車を早めに手にいれないと。

見た目はぼろくても、走ればいい。

 

トラックを横目に見ると、

わたしは走り出した。


4.

ジムの家は、湖の近くだった。

 

湖といっても、

陸の中の水のたまり場みたいなものである。

 

朝、ランニングをする距離としては、十分な長さだった。

 

ジャネットがテキサスに戻るとき、

ジムの家を選んだのは、たまたまだったが。

 

今朝の湖の周りの道は、幾分霧がかかっていた。

 

気温差が大きいと霧があるのは、

知っていたので、あまり驚くことではない。

 

霧があるせいか、

人の気配があまり感じられないのが、少し寂しい感じだった。

 

ジャネットは霧の中をゆっくり走りながら、

トニーと再会したことを思い出しはじめた。

 

トニーに会うのは、予想できていた。

 

ただ最悪な再会にはならずにすんだ。

 

すぐにジムが来てくれたから。

 

テキサスに戻ったとき、

すぐにジミーの家に行くべきだった。

 

あの場所は、昔の思い出が強すぎる。

 

だから避けていたのに。

 

あの柵。

手作りの手すり。

木のぬくもり。

 

あの牧場に行ってしまったのは、

ミスを犯したけれども。

 

トニーには、

今の私の姿を見てほしくなかった。

 

憧れの都会、ニューヨークで起業して、

リッチになってやる。

 

意気込んで出て行ったのに。

結局、今の私は・・・。

 

風が頬を切る。

ジャネットは勢いをつけて、走り出した。

 

霧はジャネットを包み込む。

 

その後、

ジャネットの後ろ姿を追うように、

霧の狭間から、

トニーが同じように走っていた。

 

ジャネットの残り香りが残った道を

走りながら、彼女を思い出しながら。


5.

目の前に広がる草原。

 

遠く彼方まで広がる緑の大地。

 

この大地を見ていると、

本当に地球は丸いのだろうか。

 

まだ小さかった私は

そんな風に思ったこともあった。

 

東から吹く朝の風は、

テキサスの大地の恵みを

感じられるかのような

 

朝露と若々しい草の香りを、

そっと運んでくれる。

 

この風が私を育ててくれた。

 

ずっと小さなときから。

ずっとここに立つときまで。

 

テキサスを離れたときの私は、

この恵みを忘れたことは、一度もなかった。

 

どんなに都会の夜が更けていっても。

 

どんなに雑踏に中で、もまれても。

 

わたしにはいつもこの風が、

緑の恵みがまとまりついていた。

 

だからもう一度戻りたいと思った。

 

それがきっと間違えではないことを祈りながら。

 

私がまぶたを閉じて、目を開けたとき。

懐かしい姿が、私を見ながらまっすぐ

歩いてくるのをみえた。

 

そう―私は気づいたら、トニーの牧場に来ていた。